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私について

目次

経歴・ご挨拶

二谷 啄矢 Takuya Nitani
1974年4月22日 京都生まれ
●心身コネクション調律師

【経歴】
京都西高等学校 卒業(現京都外大西高等学校)
関西経理専門学校経営学科 卒業
京都仏眼鍼灸理療専門学校鍼灸科 卒業
武蔵野大学通信教育部人間科学科心理学専攻 中退
二谷電厚株式会社
スポーツクラブヘミング出町
名古屋市中スポーツセンタートレーニング室

2004年 【やっとみつけた! salon de 楽心】京都北山院開設 ※旧ちりょういん楽心
2011年 名古屋院 開設
2013年 沖縄院 開設
2017年 京都富小路院 開設

【出演】
関西テレビKBS京都「京都ちゃちゃちゃっ」で当サロン紹介

【主な保有資格】
鍼灸師(厚生労働省 国家資格)
整体師
心理相談員
健康運動指導士 

「今まで何か目指してきたことはありますか? 』と聞かれたらこのように答えます。「あらゆる人の心を理解して、受け入れられるような人間になること」。実際に、人のことをすべて理解することはもちろんできませんが、とにかく知らないに人に機会を見つけては話しかけました。誰に知られることも、評価されることもない孤独な武者修行のようでした。
年を重ねるうちに知ったのは、先ほどの目標への近道は、自分の中にある怒りや恐れの感情や、物事の好き嫌い、偏見などをなくすことでした。(具体的方法は割愛しますが、何か特定の組織や宗教に属さないで目指しました)とはいえ、個人的社会的な失敗や苦痛な経験なしでは、たどり着けるようなものではありません。

周りに心配をかけたり、迷惑をかけたり、助けられたりしながらなんとか今まで自分を信じてやってこれたのは、「確実に良くなるお客さまの姿」を見て「あぁ~やってきたことは間違いじゃなかった!」と思えたことでした。そして2015年、40歳を迎えた年、その日は急にやってきました。
歩道で、若い知らない外国人男性に声をかけられ、いきなり殴られました。私は一瞬うしろによろめきましたが、彼にすぐさますり寄って、握手を求め、「NO PROBLEM! I LOVE YOU!」と伝え、ハグしました。なぜ彼がそのようなことをしたかの理由はわかりませんが、次の朝私は、腫れた顔をみながら思いました。「やっとここまできた!」と感謝の気持ちで号泣しました。なぜなら、不意に理不尽で危険な被害をこうむっても、反射的に加害者を許して愛して受け入れられたからです。

それはまだまだとは言え「あらゆる人の心を理解して、受け入れられるような人間になること」という目標に少しでも近づいたということを、確認できた瞬間でした。今はまた、次の目指すところに向け、ありがたい一歩を今日も歩んでいます。

やっとみつけた! salon de 楽心
代表 二谷 啄矢

お時間のある方はどうぞ

◇彼は三人兄弟(双子の姉妹)の長男として生まれる。

彼が愛する父は、電気工事会社の創業者である祖父の長男で、後に二代目社長となる。厳格な祖父の意向で、絶対全員参加の先祖供養が行われた。次男一家と共に、毎月の墓参りと、毎週の仏壇供養は、少々の風邪ぐらいでは休ませてもらえなかった。ヤクザのような強面祖父へ「おじいちゃんおはようございます!」と、臨戦態勢5人の孫が一列に並び、まるでローマ法王への挨拶のように頭を垂れた。祖父は「あおー」と返す。ん?それが孫への挨拶?可愛い孫たちを前にする、一般的な「お爺ちゃん」とはわけが違う。

挨拶の仕方が悪いとか、服装が悪いなどと怒り出せば、すかさず嫁二人が謝りに向かう。江戸時代ばりに嫁に手が上がることもあった。彼の4才下の妹は、挨拶するときの緊張だけで、唇を紫色に震わせていた。
怖いのは祖父だけではなかった。お行儀よくしていないといけない時間から、ありったけの現実逃避をしたかった彼は、いつも妄想にふけっていた。普通では考えられないぐらい同じような物忘れを繰り返し、その度怒られしばかれ続けた。殴られるたびに湧き起こる、怒りや悲しみの感情に、彼の子ども時代は包まれていた。 

さて、これらの経験がADHDであろう幼少の彼に、何を与えたのだろうか?

「家族とはなんだろうか?隣の家とはまったく世界が違う。もしこれが偶然だったら、この世界はなんと理不尽なんだろう…偶然なのか?」
「宗教ってなんだ?こんな高価な仏壇を買うぐらいなら、そのお金を貧しい人にあげなさいと、仏さんは言うんじゃないか?宗教は何かがおかしいぞ…」
「そもそも人間はなんのために生きているのだろう??」

というような、子どもにとっては終わりのないような疑問をずっと抱えながら、屈折した哲学思考の少年は、ろくに勉強もせず、有り余ったエネルギーを、スポーツ(サッカー・水泳)や遊び、恋に向けていた。しかしこの頃のエネルギーは、現在の彼にみる「何事も自分で考え自分で決める」「常識を疑い自分の考えを持つ」といった性格が培われるのには、ベストな環境だったかもしれない。 というか、彼が選んだ通りの環境だったのかもしれない…
おじいちゃん、おとうさん、みなさん、おかげさまです!ありがとうございました!

◇それから数年後、23歳になった彼に訪れた転機。

彼が「お兄ちゃん」と呼ぶ友人と、ある朝、山奥に向かった。自動車が来ない造りかけの道路で、やったこともないスケートボードをするためだ。しかも原付バイクにヒモを結んで、バイクで引っ張りながら坂道をスノーボードのように降りるのだ。友人は危ないと拒んだが、彼は薄いヘルメットと革手袋をつけて、新聞配達で慣らしていた若い運動神経を、調子に乗らせていった。

早朝から冷えこんだ地面が、朝日で温められ、落ち葉が水分を含みだした。その瞬間、友人の「危ない!」という声を浴びながら、彼の絶壁後頭部が地面にたたきつけられた。気が付いたのは、一週間後の大学病院の脳外科だった。

(後に周りから、この記憶のない1週間の間に、ロシア語・英語・中国語で2時間程話していたことがあったと聞く。録音されていたのだ)

後遺症がどれぐらい残るかは、医師にもわからないと両親は言われていた。彼自身、意識が戻ってから1週間ぐらいは、普通に身体が動かなかった。彼はさまざまな思いを巡らせた。「そうか、障がい者としてこれからは生きるのか…」それから2週間後、彼は退院した。しかし彼は、眼球がうまく動かせなかったために、段差がよく見えなかった。おまけに筋力が弱っていたので、歩くこともおぼつかない状態だった。

そんな時、彼は免停のため簡易裁判所に呼ばれていた。自業自得の洗礼だ。しかたなく彼は、23歳高齢者ウォークで裁判所に向かった。その道中、彼が経験したことのない思いが湧き起こった。

(子どもを見て)「お~自転車でそんな走り方したら危ないで~」
(バスの中でつまずいて周りの人に)「あっ!すいません!歩くだけで皆さんに迷惑かけるようなカラダになったかぁ…」

それは、まさに高齢者の日常マインドだった。あおい青年は、「あ~恥ずかしいなあ、でも身体が不自由ってこういうことか…」と、自分のありのままを感じていた。
さて、この経験によって、彼の二十三の瞳には何が映っていったのでいったのであろうか?

一日を生きるというコトの尊さを感じ「今までなんてもったいないことしてたんやろ」と心から思った。そして「人生思いっきり楽しまんと!」と生まれて初めて「楽しむ」という意味がわかったように思った。このちょうど半年後、彼はなんとか経営学の専門学校を卒業して、体調もままならない状態で、三代目見習いとして父の会社に入社する。半年後に会社は倒産するのだが、「楽しむ」というテンションが収まらない彼は、不安や恐れが渦巻く倒産寸前の会社で、明るくやる気に満ちた三代目見習い役として、病的なポジティブシンキングを体得する。カラダとココロで臨死体験を経験することで、勉強していた「知識」はいかに「知識」でしかないか、自分がどれだけ頭でっかちだったかを思い知る。

それは、知識=情報がすべてだと唱える昨今の風潮に違和感を感じる、現在の彼の根底にある象徴的な経験となった。おとうさん、おかあさん、おにいちゃん、みなさん、ご心配をおかけしました。ありがとうございました!

◇彼を育んだ13年間

倒産から数ヶ月後、なぜか彼は外食太りしきった80キロ級のボテボテバディーを、隠し切れない競泳パンツ一枚で、プールサイドに立っていた。未来に失望して、変質デビューした訳ではない。ご縁コネあってスポーツクラブで働いていたのだ。彼はそれから社員期間を含め13年もの間、そのスポーツクラブに勤務することになる。その間に彼は数えきれない貴重な経験をしたが、その中でも彼にとって大きかったのが、子どもスイミングスクールでのコーチ経験であった。

彼は自身の「楽しくない、つらかったスイミングの体験」から「できるだけ楽しく苦痛を乗り越える」をモットーとしたレッスンをしていた。そのコーチっぷりは、凄まじくクレージーだった。レッスン中に彼は、言葉では表現不可能な激しいアドリブギャグを、子どもたちに連発していたのだ。子どもたちは、生まれてこの方目にしたこともない大の大人のハイテンションに、トラウマスレスレ状態で、健気なハートを振り絞って彼に合わせていた…

しかし意外にも、ガラス越しに見ている親からの苦情は、13年間で奇跡的に一度きりだった。10年ほどやり続けた頃には、コーチ名「パンダマン」として、お笑いコーチとしてのキャラが定着していた。そしてまたご縁コネによって、「宇宙人パンダマン」お笑いオリジナルソングとオリジナル体操を、小学校の夏祭りでやることになった。コネでNHKの教育テレビへの進出も視野に入れていた彼は、京都新聞に載るように準備してうまくいった。大きく掲載された「京のヒーローパンダマン」。京都新聞さんには悪いが、嘘は良くない(笑)

地元テレビに生出演するまでは良かったのだが、調子に乗った彼は鼻歌作詞作曲で、Jポップでプロデビューまで欲をはり、計画は大破した。結果は惨敗だったが、彼にとっては大きな経験という収穫となった。三十路の奇人パフォーマーが、何を得たというのであろうか?

子どもスイミングスクールの子どもたちに教わったコトとは?
・子どもの心が、いかに純真で、親の愛に従順か
・素直に今を楽しむというのはどういうことか?
・大人になっても、無限に可能性は満ちている
・「子どもが喜んでくれるから」という動機だけで、お笑いコーチを13年間続けられたことへの自信

カラダとココロが、どのような仕組みでつながっているか?
彼は意識して毎日多くの会員に話しかけた。1日40人を超える日もあった。なぜなら会話の中から、その方の体調や、悩みを聞く機会が多かったからだ。運動・トレーニングだけではなく、さまざまなことを求めて多くの人が集まるクラブは、カラダ+ココロの研究を進めるにはこの上ない環境だった。

唯一のサラリーマン時代
経営者家系(母方は病院経営)だった彼にとっては、貴重な社会経験であった。上司と部下と顧客、そこで生まれる調和や軋轢、叱責と評価、純粋な熱意と無慈悲。どこにでもあるような経験でも、すべて彼のナマ財産となった。社員期間は3年(バイトは10年)と短かったが、多くの人に触れて感じたものは、現在の彼の心理セラピーにも大きく影響している。
出会ったすべてのみなさん、本当にありがとうございました!

◇セラピストとして

彼は10代の頃から「人はなぜ生きているのだろうか?」という疑問を、特殊な環境によって持たざる負えなかった。そして人間が「健康に幸福感を持って生きる」ためにはどうすればいいか?というシンプルであって困難な、人類の永遠の課題を解くにはどうすればいいのか?
その課題と、「人はなぜ生まれて来たのか?」という疑問が、彼の中でつながったのだった。彼は、多大な学びを彼に与えた賢者さえも、妄信することもなく、見聞を広めていった。なんでも自分で客観的な考えをまとめないと気が済まない頑固な魂の性は、例え世間的に非常識と言われても、愛する人達に心配をかけても変えることはなかった。いや、変えられなかった。

すべての患者さま、たくさんの経験をありがとうございました!

こうして彼は、次のステージに向けて、不器用な性格をひきさげ、周りの温かさに恵まれながら、今日も何処かをポテポテと歩いているのであった。マイペースな自己開示へのお付き合い、誠にありがとうございました!

やっとみつけた! salon de 楽心
代表 二谷 啄矢